発熱天使ロゴ 発熱的監督日記 著:前田和男 (脚本/監督)   全14回

第9回 中国ロック事情


9月17日 (撮影9日目)

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北京の町を行く 鄭釣(ツンチュン)と桔平さん


ロックスター鄭釣(ツンチュン)と桔平さん初顔合わせ。


事前に「鄭釣は気難しいぞ」と吹き込んでおいたので、

桔平さんは朝から憂鬱。


鄭釣の「非情」なほどの寡黙さは、

劉偉の多弁を知った桔平さんにとって、恐怖以外の何物でもない。

だって、言葉が通じないんだから、話し掛けようにもそれができない。


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かくして、二人の朝食シーンは、無気味な静けさが延々と続いた。

粥をすする音、食器の触れ合う金属音、時折桔平さんが「ハゥチー(うめぇ)」という。


鄭釣がぼそっと、

「あんた、ハゥチーしか言えないの?」。

それでも桔平は「とっても、ハゥチー」。


毛沢東の親族が経営する食堂での朝食シーンは、

このように「和やか」に終了。


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ちなみに、桔平さん、ここの粥がえらく気に入り、

後日、こっそりと食べに来たそうだ。

北京での朝食、豆乳と油条がスタンダードだと書いたが、やはり一押しは「粥」だ。


トッピングに「ザーサイ」があれば、これに勝てる朝食はめったにないだろう。

 僕は北京滞在中、全ての朝食を「粥とザーサイ」という黄金律で通した。


北京のザーサイは、さすが本場だけあってうまい。

塩加減が絶妙かつ深い。

あの独特の臭みが、粥で程よく中和され、絶妙の味覚として昇華する。

何度でも言う…

中国人の「食」にかける執念と知恵には

「まいりました」

と素直に頭を下げざるを得ない。



渋滞のロケバスの中で、

「あー、ザーサイ食いてぇ」と呟いたら、

あのフーさんがすかさず魔法のずた袋に手を入れた。



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午後は鄭釣のレコーディングスタジオ。

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レコーディング中の鄭釣


現在、アルバムの製作中で、プロデューサーは日本人だった。

元日本ビクターの大友光悦氏。


大友氏は、中国ロックにどっぷりとはまり込み、

今や知らない人はモグリといわれるほどの中国ロック通の日本人である。


スタジオ内のドラムセットには、「爆風スランプ」の文字。

そう、爆風スランプのリーダー、ファンキー末吉氏のドラムセットだ。

彼もまた中国ロックに惚れ込んだ一人だ。


爆風スランプが解散(休業?)した今、活動拠点を北京に移し、

華僑ではなく「和僑」を目指そうとしている「国際派」ミュージシャンだ。

自称「アジアドラムキング」。


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余談だが、

ファンキー末吉氏と東京で飲んだのは爆風の解散コンサートの前日だった。


「監督、発熱天使に続く北京シリーズ第二弾。

北京ロックの映画作りましょうや!」と、大いに盛り上がったのだ。


(艾敬の映画といい、北京ロックの映画といい、とにかく金がない!)


その勢いで、彼のラジオ番組に張怡Pと共にゲスト出演し、

「発熱天使」の大宣伝までさせてもらった。


余談ついでに、

このファンキー末吉氏が経営するバー「jazz−ya」が三里屯にある。

開店当時の三里屯は、まだ大使館街の閑静な街だったが、

「jazz−ya」が成功すると、雨後のタケノコのようにバーが急増し、

現在の「バーストリート」となったのだ。


そういう伝説的な男であるから、北京ロック界で彼の名を知らぬ人はいない。

神様的カリスマなのである。

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鄭釣のスタジオで、「日本」と出会った僕は、妙に嬉しくなってしまった。

里心というよりも、近くて遠い国である日本と中国が、

音楽という文化でつながっていることの快感だ。


ロックに関して中国は、

ミュージシャン個々の技術にしても、ファンのノリにしても、

市場的にも、日本とはかなり遅れている。


理由は簡単。

最近まで欧米の音楽が一切入ってこなかったからだ。

聴くチャンスがなかったからだ。


(ただ、この数年、中国ロックの勢いはすごい。面白い。イケテる!)


中国ロックは北京ロックとも言われる。

ロックは広い中国で北京にしか存在しない。

上海にポップスや演歌はあっても、

「虐げられし者の魂の叫び」

であるロックはない(といわれる)。


上海は経済的に豊かだからだという評論家もいる。

北京は政治的反抗心があると。



だが、大きな要因は、情報不足じゃないだろうか。

北京には各国の大使館が集まり、大使館員のバンドなどもある。

彼らは欧米でリリースされた最新のCDをバーでかけたりする。

そういう窓口からロックを知った若者が北京に増えた。

それが中国全土に広がらないのは、ロックが政府の認知を得ていないからだ。



過激すぎる詞や、生きることの欺まんをストレートに歌い上げるロックは

政府を必要以上に刺激する。

人々が集まり、熱狂することを危険視する。


だから、日本のようにテレビやラジオで紹介されることは

ほとんどないし、コンサートも開かれない。


………しかし、それも過去の話になりつつある。

最近はロックがビジネスになることに政府も気づいた。



規制緩和が進み、大規模なロックコンサートも各地で開催されるようになった。

ただし、大量の公安を動員した「監視」付きではあるが。


そういうコンサートでロックに目覚めた地方の若者は、

「ロック盲流」として北京へ流入する。

 鄭釣も、そういう「ロック盲流」の一人だ。


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鄭釣は1967年、西安生まれ。

大学在学中にロックに傾倒、92年に北京へロック上京する。

当然、親の猛反対を押し切ってだ。


デビューアルバム「赤裸々」、セカンドアルバム「第三の眼」、

共に大ヒットし新世代のロックアーティストとして人気を得ている。


「発熱天使」撮影中に製作していたアルバムは、

彼の三枚目のアルバム「怒放(ヌーファン)」で、

シングルカットされた「怒放」は、撮影の一年後、

1999年春の時点で、ヒットチャートの上位にランキングされた。


僕は、その吉報をメールで知り、我がことのように嬉しかった。

とにかく、北京ロックはたかだか二十年程度の歴史しかない。

この短期間に急速に伸びている。


パンクありの、メタルありの、テクノありの、売れ線の明るいポップス風ありので、

欧米各国のロックが時代の変遷で順序良く経てきた「歴史」を、

同時期に一斉爆発させている。


要するに、活力あるお祭り状態なのだ。

社会主義の国でロックをやると、

西側はとかく「反体制」のレッテルを貼りがちだ。


そのレッテルに最も戸惑っているのが、当のロックミュージシャンたちなのだ。


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天安門広場にて

1989年6月4日、若者たちが天安門広場で抗議の集会を開いた時、

崔健を始めとする多くのロックミュージシャンが広場でロックった。


広場にこだまする若者たちのロックの合唱に、

西側諸国のマスコミは「反体制の歌声」とコメントした。


これが、ロックに対する弾圧を生む大きな要因になった。

彼らは、体制をひっくり返すことを夢見て、革命の歌としてロックを唄ったのではない。

若者なら当然抱くであろう、生きることの苦しみや悩みをロックしたのだ。

ロックに惹かれる世界中の若者と同じ理由で。


だからロックは普遍的に若者を惹きつけるのだ。

あの日、あの広場に集った若者のほとんどがそうであろう。

ロックと「政治」を結び付けるのには、僕はかなり抵抗がある。

純粋に音楽表現として聴けんのかね、まったく。


あの日広場に集まった若者たちは、社会主義を否定したんだろうか? 

西側諸国は誤解したんじゃないの?

「若者たちは革命を目指したのだ」と。



違う、と僕は思う。


ただ、描きたい絵を描きたい。

歌いたい歌を自由に唄いたい。

そのためにはどうしたらいいんだ大人たちよ! 

そう叫んだのだ、と思う。

それが、6・4のエネルギーだったのではないだろうか。


彼らは愛国者なのだ。

少なくとも、この映画で出会った北京の友人たちは、

国を愛し、社会主義に一定の価値や理想を見出していたからこそ、

戦車に突っ込まれ、解放軍に発砲された時、

理想主義から現実主義に変わったのだと言った。


あの事件を経験した若者たちは、

国の裏切りを目の当りにし、一様に「絶望」へと至ってしまったのだ。

一つの価値観をひたすら信じ、

それに裏切られた時の絶望は極めて大きく深い。



鄭釣は、当時地方の大学にいたため、広場には参加できなかった。

しかし、遠い地から北京に思いを馳せ、事件終結後には絶望と虚無に支配された。



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彼は、常に死を考えている。

この世の出来事をすべて幻と思い込もうとしている。

それほど絶望と孤独が深いのだ。


だからこその、非情なまでの「寡黙」なのだ。

 上京してからも、天安門広場には入ったことがないという。

入る気もしない。


6・4については、死ぬまで一生話したくないと呟く。

とくに、外国人が聞くのは無責任だと。



無責任を承知で僕は聞いた。

広場を歩いてくれないか。

話したくなければ話さなくていい。

「話したくない」というその言葉を撮らせてくれ。

十年後の広場を、その目で見てみないか。


 彼は、やっとサングラスを外してくれた。

「じゃ、ちょっと観光するか」

……彼は、優しい男だ。


※北京ロックに関する記述の一部、並びに鄭均の略歴の一部は下記を参考にさせていただきました。
貴重な情報をありがとうございました。いずれも、中国ロック(ROCK=揺滾yaogunヤオグン)のホームページ
だったり、メーリングリストです。日本語のページですので、興味のある方はどうぞ。

中国ロックの通信販売
http://starfish.727.net/index.html

中国ロックのホームページ
http://www.beijingnet.com/bfc/yaogun/

中国ロックファンの
メーリングリスト

yaogun@ml.nnf.ne.jp

 


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監督日記 INDEX

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